自分の尺度で計り、自分の考えだけで物事を進めると、
視界はどんどん狭まってしまうのは当たり前。
当然最後は、自分しかわからないほどタイトに物を見るようになる。
作り上げた形を評論する事は誰でも出来るが、
何も無いところからそれを作り上げる事は、誰にでもできない。
だから私の仕事は、仕事として成り立っていのだが、
そんな簡単な現実を理解できない・・・いや、認められない人は
あまりに多く存在しているように思う。
直感的にわかる事は、理路整然と説明できなくとも的を得ている事が多いのだが、
それは多分、視界の広さが多く拾った情報を無意識に統合するからだろう。
そしてそれは、常に広く視界を持ちたいと意識し、一歩退いた場所から
自分を含めた視界を得ようと考えているから、かも知れない。
ライダーにとっては、
視界を狭くしてしまう事=アクシデントに遭いやすい
という図式が成り立ってしまう。
だが、私が視界を広く持とうと努力するのは、
私がライダーだから・・という事ではない。
どちらかと言えば、自分のみっともなさを確認したい・・という想いが、
強く、そういう視界の取り方を望んだ・・というのが、一番近いと思えるのだ。
人は誰でも欠点を持っていて、どこかに欠けた部分を持っていて、
そしてそれを、一生懸命隠そうとあがいて生きている。
隠す方法は色々で、欠けた部分を埋める努力をする人もいれば、
欠けた部分を見せないように飾ったり、他の部分を見るように脅す人もいる。
欠けてたっていいじゃないか・・・と思うためには、
欠けている自分を客観視できないと難しく、しかもその行為は痛すぎる事が多い。
いつの頃からか、その痛みが、生きている証拠なんだと受け入れられるようになって、
素直に穴だらけで傷だらけの自分を正視する事ができるようになっていた。
ただ・・・
困った事はある。
どこか常に冷静な自分が居て、
大きく心が動く事がなくなってしまったらしい。
その動きを封じ込めたのも自分だが、
心を縛った鎖についた鍵を開けられるものが、
どこにあるのかわからないのでいる。
悲しい現実だと解っていてそれを受け入れているのは、
あまりにみっともない人生の記憶が、その鎖に貼り付いているからだろう。
それでも・・・
視界は広く取れるほうが、
心は楽だと、
よくわかっているのだが。
|