仕事で、ラオス料理を食べた。
「ラオスらしい料理を作りますね」
「ラオスらしいって、簡単に言うとどんな感じですか?」
「タイ料理と殆ど変わらないんですけど、
ココナッツなど甘くなる食材は殆ど使わないので、
あっさりとした感じになります。」
「タイ料理とあまり変わらない? のですか?」
「食材や味付けが違う、感じです」
そんなやりとりをしたのは、「パイケオ」という店。
厚木の米軍基地に近い場所にあり、店には殆どタイ人が客として
ビールを楽しんでいた。
出てきたのは「ラープ」
ラオスではすごくポピュラーと言われる料理で、
豚肉と野菜を炒めた(和えた?)物に生野菜が添えてあった。
主食はロングライスの餅米。
そしてスープは、ほぼトムヤムガイ(トムヤムクンの鶏肉版)だった。
辛さはストレートで、間違いなく腹にきそうな強さがあったが、
確かに甘くはない。
そして2軒目「バーン・マイラン」
先ほどの「ラープ」がまた出てきたが、この店では鶏肉バージョン。
そして「春巻き」は生と揚げの2種類が出た。
「ベトナムの生春巻きは知ってますが、ラオス風の物はどこが違うのですか?」
「巻き方、大きさ、あと巻く物が違います。
ラオスの春巻きは、米粉を合わせて巻いてます。」
きっちり固く巻かれた春巻きの中には、綺麗に揃ったビーフン
(と言うより米で出来た麺=中国では粉と書いて麺を表す)
が入っていて、食感も楽しく食べ応えもあったが、ここで使う付け汁は
やっぱりタイの物とは違って甘くないサラッとした物だった。
(ニョクマムとピーナッツ、コリアンダーなどが合わさってるようだ)
そして最後にベトナムのフォーのような汁麺(米麺を使っていた)がでた。
アサツキともやし、肉みそがのっていてあっさりとしていて凄く美味しい。
食べてばかりの仕事か?
と言われそうだが、もちろんそうじゃない。
これらを試食しながら、ラオスについて色々な話を聞いたのだ。
話をしてくれた方は、ラオスから難民として来日し、
永住権を得て神奈川県に住んでいる人。
ラオスと聞いても、東南アジアのどこかにある国?
という感じしか持てない私だが、タイの東北地方(イサン)と隣り合わせだと
聞けば、料理がタイ料理とほとんど変わらない事に合点がいった。
ただタイ料理と決定的に違うのはあまり甘くない事。
ココナッツを使う事はあまりなく、「トムヤムガイ」は
レモングラスやバイマックルー、ラオス・コリアンダーなどが
よりスパイシーな味わいを演出していた。
実は、外国籍住民達の抱える問題を扱う事が何度かあって、
共通する問題にもその都度ぶち当たっていた。
それは、親子間で会話が成り立たない、という事。
直接的な問題としては、親は母国語で喋り子は日本語で喋るという
共通言語の喪失だが、問題はもっと根が深い。
戦争により国を追われた難民である親と、
母国を知らずに日本の教育によって育った子は、
それぞれ別の文化を持ち、別の価値観で物事を見ているのだ。
少しでも問題解決の糸口になれば・・・といつも考えながら取り扱ってきたが、
外国文化を紹介しながら、現状にも目を向ける位が精一杯で、
毎度、消化不良を起こしていたのだ。
だから、今度こそは、自分なりの答えを掴んでから、
仕事として成立させたいと考えていた。
インドシナ(ラオス・カンボジア・ベトナム)の難民を
日本が受け入れたには随分前の事。
難民達の子供はすでに成人し、
難民達は社会で働く場を失う年齢に達している。
難民として受け入れたからには、それなりの扱いをするのが当然だと思うが、
文化や慣習を理解せずに、日本の法律だけで全てを判断するなど、
難民に対するケアはお粗末な現実が見えてきた。
例えば、ラオスにおける僧侶は、冠婚葬祭を取り扱うだけでなく、
生活相談から民事裁判に近い部分までをカバーしているのだが、
その僧侶が日本に入る場合のビザは短期滞在ビザしか発給されない。
何故なら、僧侶に対するワーキングビザは、
宗教法人として認められた者にしか発給されないからだ。
「ご飯は右手で掴んで少し握って食べてみてください」
「カウニャウ」というロングライスの餅米は、壺のような鍋の上で
セイロ代わりに使われる籠で蒸され、籐のような植物で編まれた器に入って
食卓に出される。
それを手づかみですし飯のような形に握ってみると、
なんとも言えない感触が気持ち良く、餅米のせいか手にもつかず、
そしてタイ米独特の食欲をそそる香りと心地よい食感で
いくらでも食べられそうな美味しさに溢れていた。
今回は難民を援助するNPOの人も交えて色々な話ができ、
何故、外国籍の人達が同じような問題にぶち当たるのか?・・・という
素朴な疑問に、私なりに一つの答えを見いだす事ができた。
「文化は、一人きりでは培う事はできない。」
国や地域、つまり人々が共に生きる時、
その中で文化は生まれ、育っていく。
乱暴な言い方をすれば、他人と付き合うために必要となる様々な約束事が
慣習やしきたりを生み、文化を形成していくのだ。
母国で育った親と日本で育った子が文化を共有できない現状を聞いて、
今の若者達の抱える問題についても共通する部分があると思う。
同じ国で生き、同じ文化を持っているはずの日本人親子が、
何故「ひきこもり」や「ニート」を生んでしまうのか。
それは心を開き、相手を理解しようと努力しないから・・
だと、言っていい。
文化は自分以外の人間と社会を作って上で出来上がる物だと考えれば、
心を開けない人間関係は文化を育む事なんて出来ない事がよくわかる。
外国籍の人達が抱える親子間の問題も、日本人親子が抱える問題も、
他人の気持ちを理解する努力の大切さと難しさを教えない
日本の教育の不十分さが生んでいるのではないだろうか?
相手の気持ちを理解し、その立場に立てる事。
それは、恐ろしく難しくて当然だ。
言葉に出して伝えなくても相手を思いやる気持ちを伝える事ができたのは
日本文化の特徴だった。
そのために必要だった色々な決まり事は、アメリカ文化によって駆逐され、
文化を伝える人材が居ても、聞く耳を持たない日本人が今の社会を構築していった。
今になって、理解不能な若者達が増えたとか、想像を絶する犯罪が増えたとか騒いでも、
その原因となる「文化の伝承の欠如」や「偏差値偏重教育」といった部分に
目を向けなくては意味がない。
底抜けに明るく人なつこいラオス人と語らって、今の社会が抱える問題に
少しだけ気がつけた事が、最大の収穫だった事は言うまでもない。
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