「ちょっといいですか?」
「いいよ。
・・どうした?
真っ青な顔して・・・」
「実は・・・・・」
彼女はその日、書類を届けに出かけていた。
梅雨の合間の好天は容赦無しに湿度を上げ、ちょっと外に出れば汗が噴き出す状況なのに、
クーラーの効きすぎる職場を抜け出すのが好きな彼女は、率先してお使いに出ていた。
見れば、額には汗が少し噴き出ているのに、腕には鳥肌が立っている。
表情には何とも言えない翳りが浮かび、凄みさえ感じさせた。
「見ちゃったんです。」
「・・・もしかして?」
「信じて無かったんですけど・・・とうとう・・・」
彼女が訪れた事務所は個人経営の小さな所で、
古い建物が冷ややかな雰囲気を持っているものの、ごく普通のオフィスビルの一室だった。
デスクが少しと応接セットがあるだけのその部屋に入った時、
馴染みの事務員二人が来客の応対をしていた・・と言う。
先客がいたので遠慮しようか・・と思ったら、
先客は既に用事は済んでいたらしく、奥の作業デスクへ移動する。
と、同時に事務員は彼女に先客が空けた席を勧めた。
先客は、緑のスーツを着こなし、今時珍しいソバージュの髪を後ろで束ねた、
年の頃で言えば40代後半の感じがしたようだ。
彼女は、上品にも見えるが安っぽい感じも漂わせた女性の姿を見ながら、
自分と同じように書類を届けに来たのだろう・・と想像し、
「追い出しちゃったかな・・・」と少しだけ申し訳なく感じつつ椅子に座った。
3人で談笑していたにしては、事務員がそっけない・・とは感じたようだが、
仕事が優先なのは言うまでもない。
早速、届け物の確認を事務員同席で行い、無事手渡しを終了させた。
「すみません、お客様が居たのに・・」
「え?
誰もいませんよ」
「だってそちらに・・・」
振り返った彼女の目には、緑のスーツ姿の女性は映らなかったのだ。
「さっき、緑のスーツ姿の女性とお話していました・・よね?」
「いいえ。
私達二人しか事務所には居ませんよ。
午後のお客様は、貴女だけですよ」
その瞬間、彼女は自分の髪がザワザワッと逆立つような感触と同時に、
背中の真ん中から下半分に冷水をかけられたような悪寒を感じたらしい。
「よく、死んだお友達と話をした・・と言ってたじゃないですか?」
「あぁ・・」
「そんな事もあるのかなぁ・・・と思いつつ、
でも嘘だ、と信じていたんですよ、その話。」
「あぁ、普通の人はそう思うよね。
でも私にとっては嘘じゃない・・から仕方ない。」
「酔っぱらって酔いつぶれる直前の夢・・・みたいなモノだって決めつけていたんですけど、
今日のはちょっと凄かったんです。
だって、どう見ても普通の人なんですよ。
着ている物も表情も全部覚えているし、足もちゃんとついてたし・・・」
「歩く音もした・・・でしょ?」
「えぇ、ミュールのコツコツいう音がうるさかった。
歳のわりに派手なミュールだったから、ちゃんと覚えているんです。」
「映画『シックスセンス』は見た?」
「あ・・・
あんな感じ・・・・」
「でも、ごく普通の人だったでしょ?」
「そう・・・
映画みたいに変な状態の人ではなかった・・・
やっぱり、私見ちゃった・・・んですね?」
その通り。
君が見たのは説明のつかない「何か」だよ。
そしてそれは、想像以上にあっけない形で目の前に現れ、
信じられない形で消えていくのさ。
信じたくない現象を目の当たりにすれば、そうやって心底寒く感じるのは当たり前で、
自分の中に存在する基準が壊れる恐怖にもまた、心は大きく揺すぶられるものだ。
波長の合う(という言い方しかできないが)人間の体調が色で見えたり、
存在しないモノを見てしまった話をしても一切信じなかった彼女。
物理の法則に則らないモノは一切信じず、自ら体験していないモノは語る事も嫌う人間が、
その体験を通じてはじめて私の語る事を肌で理解できる事は見ていて面白い。
初めてでっ食わした時は冷や汗でたもんなぁ・・・と思い出しつつ、時間と共に恐怖が募る彼女を慰めた日、
「エアコンの効きすぎ」という文句はとうとう彼女の口からこぼれなかった。
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