去年の4月15日に初めて「七福」で「亀の翁」を飲み、
以来毎月15日を目安に亀の会を開いてきた。
亀の会となったのは5月だから、
ちょうどまる一年「七福」でお世話になった事になる。
そして今日、例によって「亀の会」が総勢5名にて開催された。
「最初は如何いたします?」
「亀の翁を一本」
「申し訳ありませんが、一本分はご用意できません」
「ではグラスで」
と、文句も言わずに引き下がる会員達の目当ては、
「田酒・古城之錦」(純米吟醸 グラス:1200円)だ。
先月の「亀の会通信」にも書いたが、素晴らしい酒が少量だがこの店には存在し、
しかもそれなりに高価なおかげでごく一部の日本酒ファンにちゃんと回ってくる仕組みとなっている。
「くわ〜っ、これですねぇ・・やっぱり」
「相変わらずの味だけど、口開いちゃってるせいか、ちょっと味が変わってるね」
「やっぱ、美味いっすよ、コレ」
「緑のボトルになってから、ちょっとキャラクター変わったように思わない?」
「あぁ・・そうかも知れないですねぇ」
要するに、ある一定以上の酒が飲めればよい、ただの酒飲み達。
でも、味はしっかり追求してしまう、食い意地・飲み意地の張った酒飲み達。
大事なのは、気の置けない一つのグループとなっていて、
仕事の話はしない関係が存在している事。
こういう関係を持てる仲間と飲む酒が、不味いワケはない(^_^)
「亀の翁」「田酒」「久保田・萬寿」「〆張鶴・生酒」と贅沢に味わいながら思うのは、
上質と呼ばれる酒がどれも似てきている・・という事。
クセが弱く水のようでいて、酒米の香りや味を素直に表現する・・・
と言えば格好良いが、どこかで同じような味に思えてしまう事があるのだ。
例えて言えば、ちょっと前の日本車の様。
どこの会社の車かちっともわからないほど、何となく似てしまうのは、
コンピュータによる設計の賜物だ・・と聞いた事がある。
日本酒もかなり分析され、水まで望むモノに造り替えると聞くから、
出来上がりがどれも似てくる理由は、何となく想像できたりする。
商売だから売れなくてはいけない。
売れ線が解っていれば、それに近づける。
そして希少価値を振りまけば・・・・
同じ様な酒を別の物として有り難く飲んでしまう人も
多く出てくるのではないだろうか?
先日、「亀の尾」を使った10年古酒をなめる事ができた。
その味は、「達磨正宗」の古酒に似た、少しバニラ香のある円やかもの。
そして、「亀の尾」らしいちょっと重めでベタッとした味わいが、
日々よく飲む酒とはまったく違う・・・と体感的に訴えていた。
「酒Bar雪」で出す古酒の数々は、今の酒達には無い個性に溢れてる。
これ、日本酒じゃないだろ?・・・・とまで感じさせるのはどうかと思うが、
銘柄を知らなくても純米吟醸を頼んでおけば良い・・という飲み方を拒絶する事が素晴らしい。
「あれぇ・・・ダメだ、コレ」
「何、頼んだ?」
「『田酒』の純米。
水っぽいんすよ、何故か・・・」
「へぇ・・・吟醸の方が水っぽいのが普通だけどね。
ちょっと飲ませて・・・・
あははは、ダメだ、ホント。
水のような良い酒じゃなくて、水っぽい酒に感じるね」
「ちょっとその吟醸飲ませてください・・
あっれ〜、全然コッチの方が重い。」
「酒米も違うだろうけど、高いなりの努力が出てるって事かね。」
「まだ、造り酒屋としての良心があるんですかね?」
「いや、プライドでしょ?
プレミアム付けて売る高級品が腰抜けだったら、
そこの酒は全部ランクが下がっちゃうからね。」
「でも、何か、似てるんですよね〜」
なんか似てくる・・・のは酒だけじゃない。
どこを見ても何を見ても似た者同士だらけ。
個性は日本の社会では悪者扱いされる事も多く、
没個性は安心と連帯を生んできたからそうなるのは当然か。
しかし、個性の無いモノには魅力も無い。
だから徐々に真に豊になりつつ今、やっと個性的なモノが素晴らしい・・
とされるようになってきたようにも感じている。
そろそろ、「質」と「個性」で勝負できる時代が来てもいい頃だと思うのだが。
「七福」
045-231-5668
横浜市中区野毛町1-6
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