他人と違う自分でいたい。
それはきっと、私が私らしいと感じる生き方だ。
ところが、社会は異端を嫌う。
他人と違う者は、社会から排除しようとさえする。
今週から、スーツを着るようにした。
それは、古くさい常識が未だに生きている社会にいて、
それなりの肩書きを持つ者の努めの一つと考えたからだ。
今までは、全ての言葉は自分の言葉として発し、自分らしさを表現したスタイルで動いていた。
しかし、不景気の嵐に揉まれ、自分の意志ではない命令を多くしなくてはいけなくなった事で、
会社を背負った言葉でしか語れなくなったから、それらしくしようと思えたのだ。
面白い事は解っていた。
行きつけの店では、異口同音に「どうしたのですか?」と尋ねられるが、
一見の店では今までとは違った応対を受ける事がよくわかる。
そう言えば、今まで生きてきて日々スーツを着るのは初めての事。
だから、自分にとっては異端な出来事でもあるわけで、楽しめる事に気がついた。
滅多に着ないから・・とそれなりに贅沢したスーツのおかげで、丁寧に扱われるのは面白い。
派手なリングを見て怪訝そうな顔をされても、そのギャップがまた可笑しく思える。
今度の日曜で45歳。
鏡の中の自分は、子供の頃想像した自分とは随分違う顔をしている。
随分若い・・・と思うし、随分歳食ったな・・・とも思うが、
スーツを着て鏡の前に立てば、新しい明日が感じられて元気になる。
色々な意味で落ち着いてこれて、
やっと、大人の顔をしてもいい・・と思えるらしい。
自分を捨てた父親への反感がこのスタイルを拒む理由の一つにあったが、
既に故人となった人間への関心など微塵も残っていないのだろう。
素直に新しいファッションを楽しもうという自分が、鏡の中で笑っていた。
人は、見かけで他人を判断しすぎる。
だから、惑わす事は簡単で、見抜く事も難しくない。
ファッションで演じる姿をスタイルだと誤解させるやり方は、
本物のスタイル保持者ではないと証明する事と同じだ。
異端を演じる者の浅はかさは、可愛ささえ感じられつつ、哀れに思える。
素直に生きるならば、それがスタイルになるのだから、
どんなファッションも楽しめば良いのだが・・・・・。
気をつけないと、七五三に見える自分が悲しくもある(爆)
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