家内安全、商売繁盛!イヨォ〜!!
とかけ声のかかる露店。
片手では持てないほどの大きさの熊手を大上段に飾った店では、
不景気を吹っ飛ばそう・・・と祈りにも似た表情で小振りの熊手を買う人が並んでいたりする。
こっちは粉物の夜店を冷やかし、金比羅大鷲神社でお参りをする。
そう、今日は「三の酉」がある日だ。
しかし、なんでこんな時期に台風だよ・・・と言う感有りの雨模様。
「三の酉」の年は火事が多いと言うが、同時に暮れに押し迫った日程となるため
何だか寒いお酉さん・・・というイメージもある。
こんな雨の中、車で行けない(大渋滞するので)場所へ行く元気は無く、
とっとと帰る事を考えた。
「あれ〜、今日は『お酉さん』だったんじゃないの?」
「いやぁ、スッゴイ混み方で、途中で断念しちゃったよ〜」
そんな会話が行く先々で聞こえる。
で、ローカルな神社の祭りの人気を再認識した。
初めての店、特に和食系の店に入って、
抱えきれそうにない熊手を見るとちょっとだけ安心する。
熊手は毎年買い換え、少しずつ大きく(高く?)するもの・・・という常識は、
こういった和食系の店(寿司屋等もそう)の中には生きているはず。
だからそれは、繁盛の証の一つとして考えても良いはずだ。
こんなに熊手を大きくできるだけの商売を続けていられるのは、
それだけ素晴らしい「何か」がその店にある・・・と考えるのだ。
しかし、その店の空気を読む事を忘れてはいけない。
若い店主が新装開店したような所に、一抱えもあるような熊手があったら嘘臭い。
(ハッタリかますために、無理して買った可能性がある)
綺麗で高そうな店なのに凄く貧弱な熊手をわざわざ置いてあったら、
それはそれで変に思える。(バランスが悪い料理が出るかも知れない)
料理は一つの制作物だから、作り手の人となりが必ず表れるモノ。
バランスの取れた料理を、見合う店と見合うサービスで出せるには、
作り手自身のバランス感覚が素晴らしくないと難しいはず。
大きな熊手にはソコまでに辿り着く歴史も必要であり、
繁盛できるまで持ってきた努力の証だと、考えたいのだ。
身なりでもそう・・・・
生き方、考え方の表れともなるソレは、
年齢相応という事と、裏付けされる重さに見合う格好こそが、似合うのだ。
だから、若者がやたら高価なブランド物を持っていると、
見ているコッチが恥ずかしくなってきたりする。
40代になってから初めて、少しばかり贅沢な物を持つようになってきたのは、
私としては自分へのご褒美と自分の生き方の具現でもある。
そしてそれは、私を象る大切なパーツにもなりつつある。
目眩で動けなくなった時、このまま死んでしまうかも・・・と思った。
そして何か悔いを残す事があるだろうか・・・と考えたら、何も無い事に気づいた。
欲しい物の全てを手に入れたわけでは無いし、世界で一番美味しい物を食べてしまったわけでもない。
でも・・・・
ちっとも悔しくない・・・のだ。
その時その時、絶対に欲しいと思ったものは、最大限の努力をして手に入れようしてきた。
結果はどうでも良く、そのアクションを遅滞無く行えた事があれば、悔いは無い・・・ようだ。
これは凄く贅沢な事だ。
こう気付ける事は、贅沢な事だ。
それが解っただけで、幸せだ・・・と思えた。
結局「幸せ」は、
「気の持ちよう」と「考えよう」で
感じられるものなのかも知れない。
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