どんな時に、生きている・・・と感じるだろう?
食べている時?
走っている時?
誰かとコミュニケーションを取っている時?
それはきっと、人それぞれ感じ方が違うから、
まさしく千差万別の答えが存在すると思う。
私は、誰かに必要とされる時生き甲斐を感じ、
美味しい物を食べている時幸せを感じ、
非常識な速度で走っている時命の息吹を感じている。
今日は久々に満月に行こう・・と車を出したが、
目眩が少し多目に出て運転が辛くなってしまった。
こんな時、無理をする意味は無い・・・・
路肩に止めて休む事にする。
歩くより運転する方が楽な事はわかっているが、
酷い状態を体験しているため少し不安になったのだ。
想像以上に道が揺れ、車の走行音や風切り音がうるさい・・と感じる。
しかしそれらは、決して不快には感じない。
目を閉じて心を静かにすると、120マイル巡航で高速を駆け抜ける感触が蘇った。
狭い車線をリミッターが効きそうなままの速度で走り続ける。
バイクでないのが残念だが、それでも十分に感覚は励起する。
見えないはずのコーナーの先に気配を求め、
後ろから取り憑こうとする何物かを振り切って走る。
そんな感触を得て私の心は、無の中に安堵の感触を得つつ、自由に開放されていく・・・。
スパーン!
という破裂音に近い音で、目が覚めた。
多分、200キロ以上で走るバイクか車の通過音だろう。
想像以上に長い時間寝ていたらしい。
時計は既に1時近い・・・
気がつけば目眩はだいぶ収まっていた。
「今、バイクに乗っては危険だ」と感じる時、私は自らバイクを遠ざける。
そうする事で、ある程度事故から逃れてきたのだろう・・・と想像している。
しかし今回は、明確に身体が乗り物を拒否しているようにも、思えた。
過去、こうなった事は無い。
だから、何か違ったモノの意志が働いているのか・・・と想像してしまう。
生かされている・・・と感じるのは単なる思い込み、とは考えられない自分がいるのだ。
色々な事をつっかえ棒にして、生きていく力が抜けないように・・と日々生きている。
そのつっかえ棒になるモノは、ある時は意地であったりある時は責任であったり、
ある時は見果てぬ夢であったり希望であったりする。
そしてそれらを得るために必要なモノ・・・自体も、そんな形をとれるのも事実だ。
ただ、つっかえ棒は頑丈であるため、時には自分自身を傷つける事もあるのだが・・・。
願わくは、楽に自然に生きたいもの。
自由に生きて孤独になるのは悲しいが、他人の分まで傷つくよりはマシかもしれない。
でも、孤独は嫌いだな・・・・・(^_^;)
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