「女が男と別れる時は、ソイツを嫌いになって別れる」
という話を聞かされて
「なるほど・・・」と思う事と
「違うだろ・・・」と感じる事があった。
今日は、メンバーの一人が誕生日のため、急遽日程変更して「壁の会」を開催した。
久々に大バカ3人が揃い、壁は17本のボトルによって形成される。
そして宴も酣な頃、そんな話題になった。
確かに過去、つきあってくれた人の多くとは、2度と会わないようになった。
だが、付き合い方が変わっただけで普通に会っている人も、
突然付き合いが再開する人も少なからずいる。
そしてそれは、コッチの感情より向こうの感情によって付き合いが成立していると確信しているから、
別れる時には「嫌い」になるのではなく「見切りをつける」のじゃないか・・・と思うのだ。
「見切り」がつけられるから「嫌い」になれるのだろうし、
好きな感情をリセットするには「嫌い」になる事が必要だから、
気が強くその上感情に支配されやすい女性にとっては、
「嫌い」になってしまう事が簡単で確実なのだろう。
ところが男の場合は、いつまでも「好き」な感情を捨てきれない事が多い。
何故なら男は、本来「気が弱く」て優しい生き物だからだ。
「女々しい」「男らしい」・・・なんて言葉は男のために使われるモノ。
それは、「男は弱くて情けない」事の証明でもある。
そしてその「気の弱さ」は、体格や体力で物理的にカバーされ、
色々な殻を纏う事で精神的にもガードされている。
見栄やハッタリをかまし、肩書きを重視しファッション等に拘るのは、
「弱さ」をカードできる「男社会が作りだした暗黙の了解」が生きているからで、
まさにそれが「殻」の一つに相当するわけだ。
私も若い頃は、相手の全てを束縛したくて、しかたなかった。
そしてまた、そう望むからには自らも相手のために全てを費やそうとした。
それは、大好きだからこそ失いたくない・・という想いを、
束縛する事で安心させよう・・という気の弱さが現れた事。
だから、どちらかが横を向いた瞬間関係は破綻し、
修復もまた難しい・・という事になりやすく、実際修復できた関係はなかったと思う。
ところが最近、
何処を見ようと、全てを一人に集中しなくとも、
誰かと付き合っていける事に気がついた。
気持が薄くなったり、いい加減なわけではないのだが、
自分を曲げてまで相手に合わせる事や、我慢、無理をしないようになったのだ。
これは私にとって、とても不思議な変化だと感じている。
いつでも好きな女に傍にいて欲しいと思っても、彼女には彼女の都合がある。
だから、彼女が望むだけの、自分にとって可能な努力は喜んでできても、
自分の都合を優先する事も当たり前にできるようになった。
今日はバイクに乗る。
今日は酒を飲む。
今日は誰かと会う。
今日は好きな女と一緒にいる。
それらに順位は無く(過去は確実に決まっていた)
その日の感情と事情でチョイスは変るのだ。
貪欲に動いてきたのは、いつも自分の中にある喪失感のため。
そしてそれが、決して埋まるはずのないモノだと知っていても、
足掻き、のた打ち回る事でどうにか「現実直視」と「諦めにも似た納得」を得ようとしていただけの事。
心の中にある傷や穴は、ソレができる過程を理解できる人でないと埋められない。
だからパートナーには無意識に「ソレを埋められる人」を求めるのは仕方なく、
「好き」という感情すらその充足感に左右されるようにも考えている。
しかし、これほど難しい問題はない。
その傷や穴が深く大きいほど、その原因となる様々な経験を同じように積んでいないと、
たった一つの言葉でさえ疎通ができなかったり凶器になったりするのだ。
「じゃぁ、男が女と別れる時は?」
「そりゃ、横向くのさ」
「?」
「浮気だよ」
「って本気じゃん」
「そうか」
男が女と別れる時は、「冷める時」だと思っている。
誰よりも好きだ・・という強い気持を消し去る事は、
その想いの熱さが無くならないと不可能だ・・・と気付いている。
弱さを自覚する前に、気持を切り替える。
そんな狡さもまた、生きていく上では必要な事なのだろうが、
私は人を好きになる感情を、未だにコントロールできないでいる。
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