スロットルを開ける。
エンジンはトルクカーブを意識させるように回転を増す。
タコメーターの針はレッドゾーンへ向けて跳ね上がる。
ポンポンポンと3速までシフトアップすると、スピードメーターは120マイルあたりを指す。
その途端、グゥ・・・と後ろから引っ張られる・・。
リミッターが効いた。
こんな速度で公道を走る事は、普通の神経じゃない。
だが、当たり前に、普通にこうやって走っている。
ギリギリの走りをしていてやっと、生きている実感が感じられる・・・
と思っていたのは随分若い頃。
それは自分にとって、とても説得力ある考え方であったのも事実。
しかし・・・・
心が躍り続けるワケではない。
やがてそれは、日常という姿の中に色褪せてしまう。
自分の立つ場所が解らない。
自分の歩く方向が解らない。
だから「生きる」という一つのチョイスしかできない状況に追い込んで、
そして「生き長らえる」事を自分から欲するようにしむける。
そんなやり場の無い苛立ちの日々を過ごしていた時、
私は決してバイクの後ろに人を乗せようとは思わなかった。
今の私にとって、バイクは趣味の物。
移動するための道具。
そして、一番刺激的な乗り物。
それだけでしかない。
自分の立っている場所は、自分で触って確かめるモノ。
立ち止まって足元を見る事から、全てが始まるモノ。
ソレしか見えないように自分追い込めば、上っ面を眺めるだけしか余裕は無くなる。
それでは、本質的な意味を理解できないまま、自分を騙す事になってしまう・・・。
後ろに好きな娘を乗せて走るのは、若造だった頃の夢だった。
いつも「このまま見知らぬ街へ二人で行きたい・・・」と願ったのは、
現実逃避に近い感情が作用していたのだろう。
ソレくらい、現実が辛い状況にしか感じられなかったのは、若かっただけではない。
幸せというモノの意味を理解していなかった事が、大きな「飢え」となってのしかかっていたのだ。
今、スピードは、日常的に必要なモノ。
そのための道具は、バイクでも車でも構わない。
普通に走る車に意識させないように抜き、元気に走る車は従えて走る。
100マイルでのスラロームは、私の生きる上での方法でしかなく、
そこに何かの効果を期待する事もなく、同乗者に何かを影響させる気も無い。
必要があって、東京辺りまで往復する事が続いている。
首都高はイージー過ぎてツマラナイから、下でコースを変えて走ってみた。
窓を全部開け、ステレオをガンガン鳴らして走ってみれば、夜風の気持ちよさが身を包む。
目に飛び込む景色は、何時か走ったなぁ・・と思い出させる懐かしいモノ。
そして、その頃感じていた淋しさなんて幸せのウチだと、今は知っている。
こんな風を、好きな人と二人で味わったら、素敵だな・・・と思う。
そして、
何の気負いも無く
「好きな人をバイクの後ろに乗せたい・・・」と
思える自分がいる事に気付いた。
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