「それは当たり前だろ」
「でも、恋人の名前をメルアドにしちゃうんだぜぇ・・」
「・・・てさぁ、女だったら当然の考え方だよ。
高校生だからって事じゃないよ、ソレ」
「でもほら、数人を掛け持ちしてるヤツだったら、そんなメルアドにできないだろ?」
「バカだなぁ、そういう器用な事するヤツは、複数の携帯持つんだよ」
「そりゃ、お前じゃないの?」
「俺は、モバイル用と電話用に持ってるだけさ・・・・。
・・・何だよぉ、その目は?」
「純粋な恋愛だって思えないのか?」
「じゃなくてさ、今の若い奴って『使い捨ての人生』だからさ。
ぱっぱとその場限りで生きてるんだよ・・・・」
使い捨ての人生・・・か。
そう言われて、自分の感覚が古くなってきている事に気付く。
確かに「薄っぺらな文化」とこき下ろしていたのは事実だが、
使い捨て・・・という感覚にはソレで良いのかも知れない。
ニーズに合ったエンタテインメントを提供しているだけの文化を、
郷愁も伴って嘆くのは不景気な今を理解していない証拠だとすれば、
ちょっとばかり感度が鈍ってきたとも思えるのだ。
ありゃりゃ・・・
コッチが歳食ったって事なのか・・・・
しかし、それでも、形だけ取り繕う文化は大嫌いだ。
本物の幻想を見せる技ばかり長けて、本物を知らずにそれを模倣し続ければ、
やがて出来上がるモノはまったく別なモノになってしまうだろう。
消費する事で成り立つ社会の功罪ではあるが、
「それではイケナイ!」と言わずして
本物を生き残らせる術は無いじゃないか。
本物じゃなきゃ嫌な人間と、偽物で十分な人間は確かにいる。
「慣れ」という事もあるが、人によってはレギュラーコーヒーよりインスタントが好きな人もいる。
インスタントラーメンは食べたくなるし、バーチャルなウェブ環境も好きだったりする私は、
そのどちらも当てはまる部分を持っている事に、あらためて気が付かされた。
人生なんて使い捨てだよ、確かに。
生きている意味なんて、きっと無い。
存在する事と、経験する事はあったとしても。
でも、生きているからこそ感じる事ができ、出会いがあってこそ会話ができる。
「一人きりでカウンターにいて、圧迫感はありませんか?」
「ないよ、どうして?」
「いやぁ・・、今日みたいに珍しくお客様がいないと、
コッチからは空間が大きすぎてそう感じるんですよ。」
「俺にしてみりゃ、静かに一人きりで飲むのが好きだから
こんな静かな夜は『ありがとう』って感じでしかないな・・・」
「今日は6時からお客様がいっぱいで、今が信じられないって感じです。」
「月曜なのに珍しいよねぇ」
「日曜の深夜みたいです・・が、一人きりってのは珍しいですよ。」
いつものバーで贅沢なスペースと時間を味わいながら、「使い捨ての人生」を考えていた。
金融機関が破綻し、学歴・経験関係なしに職を失う時代には、ぴったりの言い回しかも知れない・・・と。
明日は我が身と考えれば、
今を大事に生きるのか、将来の為に貯め込むのか、のチョイスは必要かも知れない。
性格的に貯め込む方でありながら、将来は今を積み重ねる事でしか築けないと考える私は、
「今できる事をやる」考え方で生きようと思っている。
何故なら、年と共に失うモノがあり、貯め込んだ記憶も忘れてしまうからだ。
今飲んでいる酒は1975年醸造のモノだが、ファッションだけその時代に戻った・・・と解っても
自分の1975年をあまり思い出せない現実は解りたくない・・と思ってしまう。
2002年醸造のモルトを飲む頃、あの時代は大変だった・・・と言えているか、
もっともっと使い捨ての文化が定着して忘れてしまっているか・・・・
どっちだろうね?
|