子供の日に鯉のぼりを上げる。
それが当たり前だと考えていたのは既に過去の事かも知れない。
そう思わせるのは、コンクリートシティに住む人間の錯覚だろうが、
町中にその姿を見ないから、今日は子供の日だなんて気がつきもしなかった。
一時期、車に鯉のぼりをつける連中がいたが、今年はそんな車も目につかない。
柏餅や粽も、和菓子を趣味にしていないから口にしない。
節句の意味も忘れ、ただただ暑い(横浜でも30度近くになった)と文句を言い、
気分はすっかり夏気分にシフトしていた。
こどもの日だから何か特別な事をする・・・なんて経験が無いから、
余計にその存在は「ただの休日」として捉えているのかも知れないが、
写真の仕事で鯉のぼりを撮影した記憶はある。
大きな鯉のぼりは、相当な風が無いと真横になって泳がない。
町中でその風を期待するのは難しく、しかもその大きさから何処で撮影しても
変なものがバックに写り込みそうな町中では都合が悪かったりする。
しかし、商品撮影はもっと大変だった。
正対した鯉のぼりを撮影するのに、相当な距離が必要となるのだ。
その時考えたのは、団地のベランダから俯瞰で撮影する事だった。
白い紙を何枚も繋いでバックを作り、それを地面に敷き詰めて重石で固定し、
その上に鯉のぼりを広げるまではよかったが、風が吹くとぺらっとめくれてしまう。
紙は重石がつけられるが、鯉のぼりには重しはのせられないのだ。
勿論、テープで固定しても風の強さには敵わない。
ベランダにカメラをセットして撮影寸前まで鯉のぼりを押さえておき、
風を読んで大丈夫そうな時「せえの〜」と声を出して手を離す。
ファインダーからスタッフ消えた瞬間にシャッターを切る・・・と。
で、結局一日がかりの撮影になってしまったのだが、
野次馬の整理の方がもっと大変だった・・(^_^;)
そんな事で出来上がった写真は上々の評判で(勿論格安に撮ったという事も大きかったが)、
吹き流し、真鯉、緋鯉と並べ、さらに小さな鯉のぼりをセットした4本パックを、
雄大な風景をバックに撮りたいという事になった。
雄大な風景?
何処?
アートディレクターは口から出任せに、
波の砕け散る海をバックに・・・とか、大草原の真ん中に・・・とか吹いてしまう。
それじゃ、場所はお任せで・・・・と返ってくるのは解っていたから、
場所を詰めましょう・・と言うのだが、誰にもアイデアなんて無かったりするのだ。
で、結局出かけたのは八ヶ岳(清里)だった。
牧草地にちゃんとした棒を立て、そこに鯉のぼりをセットする。
バックには八ヶ岳、下は綺麗な緑の牧草。
バッチリの構図にはなるのだが、風が吹かない。
天気良ければ風が無く、風が吹けば曇って山が見えない・・・・。
で、結局予備日(5日間)まで費やしても思うような画にはならず、
スポンサーに頭下げて別の場所で撮影しようか・・という話になってきた。
ところが帰ろうとした日、風が強くしかも空が晴れてしまう。
それじゃ、一気に撮ろう・・と準備をしてカメラを構えるのだが・・・・。
鯉のぼりは、実はちゃんと腹を下に泳ぐものではないのだ。
吹き流しはいいが、3匹の鯉が全部腹を下にして泳ぐチャンスは滅多に無い。
スタッフ一同「ゲ〜」とか喚きながら、
「ちゃんと泳いでくれ〜」と神頼みをしたのは言うまでもない。
鯉のぼりを見るとその時の事を思い出すのだが、その鯉のぼりも今や贅沢品。
泳がす場所として欲しいのは棒を立てられる庭なのだが、庭付き住戸なんてものはもう夢の彼方だ。
初節句に鯉のぼりを孫に送れる祖父母の数だって、減ってきているのかも知れない。
伝統的な文化は、こうやって忘れ去られていくのかな・・・と少し寂しく思うのは、
そんな風景を見てきた記憶のお陰だろう。
今の子供達は、自宅に鯉のぼりが上がる意味も価値も知らないまま「昔話」として節句を捉えていくのだとすれば、
鯉のぼりは「豊かさ象徴」だけでしか生き残れないかも知れない。
文化的な意味だけではなく、子孫を大事に思う心を伝える方法をどうしたら残せるかは、
コンクリートシティに生きる私には解らないでいる。
とても悲しい事だなのだが・・・・。
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