「道成寺」は素晴らしかった。
*第6回 横浜飛天双○能 の演目
命がけとは聞いていたが、
実際、面をつけた状態で飛び込む鐘の大きさは想像以上に小さく、
その状況を考えるとその意味は良くわかった。
気がつけば、かなりの数「能」を観てきているが、
これほどの緊張感溢れる舞台は、記憶の中には存在しない。
シテの松井彬氏にして、最後の道成寺と言わしめるからか、
演者間の「間」の奪い合いが直接伝わってきて、興奮させられた。
*一生の内で、何回も演じられないという「道成寺」に彼は今回で4回目の挑戦となる。
演じ損なえば怪我、悪ければ命に関わる演目だが、能の中に狂言も混じる娯楽性の高いものでもある。
この会のパンフレットの2ページを任された事は、
私にとっても一つの区切りとなるだろう。
そう思える事が物理的にも精神的にも起きている。
何の気なしに起きる偶然は、生きている上での必然である事は知っている。
それが、ある一つの形となって現れる事は、とても幸せな事かも知れない。
今回も知り合いを何人か招待した。
その中で、自ら謡を嗜む人がいるが、
能楽堂を埋める「への字軍団」にはかなり驚いた・・・らしい。
勿論、演じられた能の素晴らしさにも・・・。
形で物事を判断するな・・・とは言いにくいが、
私を良く知る人でさえ、能楽堂での風景は想像できなかったのだから、
まだまだ能の世界は、堅苦しいイメージを強く持っているのだろう。
型で表現する能は、その日その時の空気で変化する。
だから、二度と同じものは演じられない・・・と、観る人達は知っている。
それなのに形をイメージするのは何故だろう。
それが社会の方法論だと解っていても自由の意味を知らない人達にとっては、
形にはまって歩く事が当たり前だと感じるものだからか・・・。
空気を感じる事は、その感性を磨かないと難しいのかも知れない。
強いられる緊張感に締め上げられた観客達は、「道成寺」が終わった瞬間に席を立った。
それほどまでに強い緊張感は、空気を感じていた私には「心地よさ」となって伝わっていたのだが。
無意識に社会の中を歩いていて、いつの間にか形で物事を見ている事。
形でしか表現されない能の中に、自由な広がりを感じさせられる事。
その両極端を感じる事こそが、今日の一番大事な事だった。
やはり、その場に飛び込まなくていけないのだ・・・・とも。
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