「どうして現場を理解しない?」
「一度も現場に顔出さずに、何がわかる?」
と、言われる事がある。
が、そういう言い方をする人に限って、
相手の立場を理解していない事が多いと、感じさせられる。
現場にしか解らない事は確かに有り、それはどのパートに於いても存在する。
だからそう言われれば、
「どうして「コチラの立場」は理解してくれない?」
と反対に尋ねたくなってしまうのだ。
見えない「未来」に怯えながら、
見えている「過去」にしがみついて判断するのは、良くわかる。
しかし、
自分の歩いている地面の位置を感じないで、
当たり前に歩いていけると信じ切って、
整地している人の存在に気付きもせず、
道の先を確かめもしないのは、
何故だろう。
地面の立場から見れば、相手の目線の高さがよくわかる。
誰だって前は見るけど、足元なんて見ないものらしい。
今日、人間関係の構築は難しいと、思い知らされる事があった。
言葉は、一度出てしまうと取り返しがつかない。
それが人生の進路についてだったら、尚更の事。
だからこそ、その言葉を尊重するし、慎重にもなる。
しかし、明確にケンカを売られれば受けてたつのは、当たり前。
確信犯にはそれなりに牙を剥くのは、私の生き方のルールだ。
その言葉の応酬には、信頼感の欠如という相手側のスタンスが隠れていたのだが、
伝わるだろう・・・と正直に喋り、そして理解されないまま時間だけを浪費した。
意志の疎通を一生懸命図っても、決めつけられた考えに捕らわれた人には伝わらない。
悪者と決めつけられてしまえば、その言葉は悪意からの出た言葉として認識・判断されてしまう。
しかし、全ての答えが出た後、立場が変わってスタンスも変わり、
そして初めて言葉が通うようになった。
見えている過去の「事実」は、遠く離れる程忘れられる。
口先だけの「優しさ」や実行されない「約束」は、今に近い程魅力的だ。
信頼というモノは、忘れられていても実行される「約束」の積み重ねと、
変わらない「生き方・考え方」という物差しを持ち続ける事で、築かれてゆくもの。
それだけ時間を必要とするものだと知っていても、社会的立場に甘えて勘違いしている人は多く、
肩書きや看板を見せて信頼を得ようとする人は少なくない。
勿論、社会にはそういった見方は存在する。
看板を信用し、肩書きを信頼する。
ファッションや持ち物も、然り・・・だ。
それを知っていてコッチも反応を見て楽しんだりするから、
ある意味、質が悪いのだが・・(^_^;)
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