自分の想いを伝えられない事は、とても歯痒く切ない。
命のやりとりをするような関係なら尚更。
基本的に共有しているレベルが違うと、どうしてもそんな状態に陥りやすい。
そしてそのレベルの違いは、高い方からしか見えないから質が悪い。
同じ体験をしていても同じ想いに駆られるとは限らないが、
なんとなく同じ想いを持っているとお互いが誤解する事は多い。
そしてその誤解が認識の違いを隠し、
気が付いた時には大きな溝ができている事は、よくある事だ。
大事にしている物を崇め過ぎて、勝手なルールを自分の中に作ってしまう。
それが共有されているように誤解したまま・・・・。
意志の疎通は難しい。
言葉を使う事は難しい。
3日間、友人と飲み続けている。
苛つく心を隠しても、顔の色に出ているから話を聞く。
酔って語る事は大した話じゃないが、
伝わらない想いを聞いているだけでも、彼にとっては意味ある事かも知れない。
いつも一人で生き、誰にも頼らずに走り、
でも、生きている実感が欲しくて、負い目を背負って歩く事を彼は求めた。
それは、自分という存在を見つける事ではなく、
自分という存在を認識させたい行為。
そして、一人ではないと感じたい気持。
誰も自分を理解できないと切り離しても、
誰か自分を理解してくれと叫んでも、
いつもその寂しさは心を掴んで離れない。
だから、自分らしく生きる事にしたのだろう。
そうするしか、自分の存在を自分で確認できないのだろう。
「何か」に寄りかかって生きている人は多い。
家族だったり、組織だったり、生き甲斐だったり。
その中に「看板」というモノも含まれて、
ソレに頼って生きている人間もいるだろ・・・?と訊けば、
彼には思い当たる節があったようだ。
彼にとって今回の訪問は不本意な事。
自分ではまったく計画していない事態。
でも、こんなに密度の高い話ができるのなら、きっと必然だったのだろう。
何だか禅問答のようだな・・・と笑い飛ばし、
ベッカース7年(53%)をグイっと干した。
それにしても飲みすぎだね(^_^;)
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