朝、何の気なしに信号を見ていた。
左折の矢印信号がついているその信号機は、
いったん赤信号になってから左折可の矢印信号が点く。
その信号になれていないドライバーは、それに気がつかない。
いきなり並んでいる車達から「早よ、行かんか!」とばかりに
クラクションが鳴る。
どこにでもある、光景だなぁ・・
と思って見ていたが、ちょっと疑問に思った。
何故、赤信号になる前に矢印信号を点けないのだろう。
信号は赤になる前に黄色になるが、それを見て停車するドライバーは、
赤信号を確認したらそのまま信号を見続ける事もなく、
ちょっと気を抜いたりして、次の青信号を待つのが普通だと思う。
見る意志が無いと、人間は見えていても認識しないから、
当然その後に点灯する矢印信号には反応しない。
でも、こういうパターンの信号って、かなり多いと思う。
例えばマックのOSの特徴である、間違えようのない操作手順で操作を構築していく、
といった人間にとってやさしい考え方が、日本の社会には殆ど欠如しているように
感じるのは、考えすぎだろうか。
赤になった後、矢印が出るはずだから、そのまま交差点に進行した・・・・、
という運転をするローカルドライバーと、初めての場所だから慎重に・・・、
という運転をする一見ドライバーが、どっちも制限速度を適当にオーバーして
その交差点に入れば、追突事故の可能性は高くなるのは当たり前。
黄色信号が出ると同時に矢印信号も点くと統一されていれば、
黄色になった時矢印が点かない場合は、絶対赤になると皆思い、
そういう「だろう運転」から引き起こされる事故は減るに違いない。
何でも規制して、何でも統一したがるくせに、その方法が解りにくいのは、
コントロールする側の防御であり、浅はかさの現れだと思う。
信号を見ていると、今の日本がそこに集約されているように感じてならない。
もっとも、バイクに乗っている時は、交通法規より自分の身体の方が大事だから、
あまりそういう不満が起きないのも事実。
(そりゃそうだ、とんでもないところ走ったり、とんでもないスピードを出したりと、
ここでは書けないような走り方が常なのだから。)
結局、自分の命は自分でしか守れない乗り物を好む人間は、
生き方も似たようになるだろう。
頼りになるのは自分だけ。
それを当たり前と感じ、自分の事は全て自分でやりたがる。
そうでなければ納得できず、そうでなければ安心できない。
そしてその方法は当然自分中心となるのだから、
社会構造が解りにくかろうが、法で規制されようが知ったこっちゃないのだ。
誰も信じられない・・ともとれるがそうではなく、
同じ土俵に上がらない者を信じない、という事だろう。
(自分の事さえ自分でできない奴とは、
死線上でのじゃれあいなんてできるはずもないのだから)
それがきっとライダー気質と言えるものだろう。
(例えバイクに乗っていなくても)
自分の能力の範囲で全ての事を行うのは、
実はとても自然な事だと思う。
アッ、信号が変わった。
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