ここ数年、夜空が見えなかったような記憶のある七夕。
平塚市では例年どおり七夕祭りが開かれて、
賑やかな竹飾りが街に並びます。
私が子供の頃一度だけ見に行きましたが、子供心に盛大な祭りだった事を
覚えています。
今年はなんと49回目を迎え、しっかり平塚の顔となったイベントですが、
元は空襲で焼けた(市街地の7割は燃えたという)市の商業振興のためのイベント
として始まりました。
今年は市内全域で3400本の竹飾りが立てられ、11日までには300万人の人出が
あると平塚市では見込んでいるとか。(平塚市広報)
織姫と彦星云々の故事にならって、
初夏のイベントとしては盛り上がりやすいものですが、
一年に一回だけしか逢瀬が無いとなると・・・、我慢できるかな?
なんて余計な心配。
どうも、男女間というものは、
触れられる距離にどれだけ長く居られるかが、
長続きできるかどうかの一つの尺度だったりするようで、
忙しさにかまけて電話やメールだけでコミュニケーションをとっていると、
どうしても心は離れていってしまうようです。
(経験者は語る・・)
出会って、コミュニケートして、
段々惹かれて、
お互いの個人に干渉しあい、
カップルとなる。
その関係において、最近は結婚というシステムが
あまり当てはまらないような社会になってきているように、感じます。
女性が社会で生きていく上で、どうしても肉体的ハンデが有る以上、
それ以外の回避できるハンデは負いたくないと考えるのも、理解できます。
(名字を変える事は、仕事をしていく上でメリットなんてあまりないですからね)
しかし、それ以上に、老後の親の面倒を誰が看るのか、
というようなドメスティックな部分での共有が、
小子化の影響もあって難しくなっているのでしょう。
お互いに好きで、愛情もあるから一緒に暮らしても、
お互いの親の事は各々の責任で・・・、というのが、
個人的にも楽だと考えられてしまう。
つまり、結婚はいまだに親の世代では、子のためのものでなく、家同士のものであり、
子の世代ではその人は好きでも、その人の親を好きにならなくちゃいけない理由は
見あたらなくなってしまったように、思えるのですね。
そんな形で一緒に暮らす事は、今の社会では当たり前に行われていて、
子供ができたりすると、その子供のために籍を入れるくらいのものですから、
結婚の価値も随分下がったもの。
だから、夫婦別姓なんて事も言われるようになるんでしょうね。
まあ、同じ名字になる事が、お互いどれだけの価値を持つかは、
それぞれのカップルによって違うのでしょうけど、
確かに実生活において諸権利さえ共有できるなら、名字はどうでもいいか・・と
思いますね、私も。
それより、夫婦じゃないって事で、
事故を起こした時連絡を取ってもらえない事の方が、
哀しいかもしれません。
(ベストの裏に、連絡取って欲しい人の名前と電話番号書いておこうかな・・・)
何はともあれ、久々の晴れた七夕。
今日の夜は空でもみますか。
by H
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