物心ついた時、家には父という存在がいませんでした。
そして、それは当たり前の環境として、認識していました。
学校へ行くようになって、自分が普通と違う事を理解したのは、父親参観日でした。
今から35年も前の事。
その時、友達の「何故」攻撃に、上手く説明できない自分がいました。
学校は表向き、男女平等貧富無視の絶対的成績主義を貫く所でしたから、
自分ではどうしようもできない事で、平等でない事に悩みました。
やがて、人間は基本的に平等ではない事を、
例えば体力や知力、生まれた家の財力や人種の違い、
見てくれの違いや体格の違い等で、学びます。
そう、どんなにきれい事を言っても、平等な状態なんてありはしないのです。
だから、少しでも自分を良い位置に位置づけたいと思う人が、
無意識に差別をするようになるのでしょう。
差別は、人間が社会で生きていく上で、必要とした手段のひとつです。
差別される側の特徴は、
社会的に認知されているステイタスとは反対のものを持っている事、
例えば力であったり、恐怖であったり、というものではないでしょうか?
(だから、無意識に恐怖を与えるバイクは、差別の対象となり得るのでしょう)
もっとも、差別自体は、どちらからするか、という問題もあるので、
する側・される側と限定すべきではありませんね。
私は、差別しないで、区別するよう、心がけています。
現在は、戦後の教育の成せるわざなのか、
男性化した女性と、女性化した男性が入り交じり、
能力による区別化が進み、家庭の存在意義すら崩れだしています。
良いポジションにつき、責任も持つ優秀な女性が、
女性という事だけで子育てに時間をとられる事を嫌うのは、
成績重視の教育課程を経た結果のなせるわざ。
(もちろん、女は家庭で子供を育てるもの、といった社会通念が存在する事も
大きな理由の一つですが。)
離婚した時に、名字を変えるのは面倒と思うのも、
会社社会でいきているからに他ならないでしょう。
再婚の条件が「籍を入れない事」なんて言う女性、けっこう私の周りにいます。
(だから、夫婦別姓なんて提案が出てくるんでしょうね。)
ただ、仕事をしなければ食べていけないし、
社会に生きなくては自分も死んでしまうと、頑張っているシングルマザーに、
子供は理解を示しません。
子は親の姿を見て育ちます。
親の置かれている立場は、子供なりの理解ができるのです。
でも、離れているのは寂しいので、その子なりのアピールが始まります。
手を変え品を変えて「寂しい」と訴えても通じなければ、
自分の体の調子を崩してアピールできるのも子供の能力。
そんな時の親は辛いですね。
でも、しかたない。
成るようにしか成らないし、
精一杯頑張るしかない親に、子供はやがて協力します。
だから親子は、その生活の過程で絆を深めていくのでしょう。
しかし母と子は、父と子に比べてつながりが深く思えます。
どう逆立ちしても、男は別の生命を生み出す事ができなく、
その意味で、女にはかなわないと、思うからでしょうか。
そう考えると子を持つ意味が、男と女では違うものと、考えざるを得ません。
はじめて息子が生まれたとき大将が、
「後は、お前の生き様を見せるだけだな・・・」
と言ってくれた事、懐かしく思い出します。
母は愛情を、父は生き様を与える役目があるのかもしれませんね。
最近になって痛烈に感じる事は、
他人の人生の責任なんて負えるものではない、という事。
同じ様な家庭環境に育った子供達が、まったく同じ人生を歩むわけはなく、
その子の性格や資質などによって千差万別なのですから、
夫婦であれ、親子であれ、恋人同士であれ、
余計な思いこみは自己満足にしかならないのです。
(自分の人生の責任すら、転嫁しようともがいている人も多いですが・・。)
私?
仕事、頑張り過ぎて、
家族に切り捨てられたのは、
何年前だったっけ・・・・
by H
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