今朝(6月21日朝日新聞朝刊)の「天声人語」に斎藤茂男氏の事が書かれていました。
取材をする上で、される人を理解する事を大事にした、有名な人です。
その中に暴走族の少年の話がありました。
彼の車に乗せてもらった事にも触れられていました。
いつも、他人に振り返ってもらえない少年の寂しさを肌で感じる取材、
それは不特定多数の人に発する記事を書く上で、とても大切な事。
それを読んでいて昨日の事を思い出しました。
昨日(というか今朝というか)1時間程散歩をしていた時、
爆音を轟かせる暴走族のパレードに遭遇しました。
彼らは、この時だけが楽しいんでしょう。
あの集団の中で、相手にされない一般社会とは正反対の連帯感を感じて、
振り向いてくれない世間に復讐するかのように、ゆっくりゆっくり走っていくのです。
(うるさい事おびただしい)
私達のMCも、族というカテゴリーの中に位置づけられているのですが、
(一般的には、特効服であろうと看板であろうとバイク乗りの集団がいれば
同じように見えるのでしょうから)
束になって走る事はしないので、彼らの気持ちが少し解らない部分もあるのです。
走る上では、集団でいる事の危なさを知っているので、
どうしても集う事には抵抗があります。
一人で マイペースで気持ちよく走る事のほうが、楽しいです。
一緒に走っている人間の気持ちやコースなんて、
想像しても外れている事の方が多いから、
先頭切って走る時の苦痛は半端ではありません。
だからきっとあの低速迷惑集団にだって、
独特のルールがあったり暗黙の了解があったりするはずです。
結局、相手にされない社会に背を向けて、相手にされる社会を作っているだけの事。
その別の社会の中には、やっぱり他人の立場を理解してくれる人が居て、
その集団をリードしていたりするのでしょう。
最近、30代の部下達の話を聞いていて思う事は、
「決めるのは上の方々ですから・・」
という決め台詞がうざったいって事。
提案は有り難く拝聴するとしても、
「自分としてはこれができる」という考え方はなく
不平不満の垂れ流しと
暗黙の ルール(法律的なものも)を無視した絶対平等獲得要求。
上は、下の気持ちを考えながらも、別のサイズで例えば会社という集団を考え、
下は上の事情を想像できない(想像したくないのかも)事を隠しもしない。
会社ならそれでも良いけど、バイクに乗ったらそうはいかないよ。
ホラを吹いたら実証させられる。(「できるだろう」と「できる」は全然違うもの)
相手の立場が解れば、きっと事故を起こさないで走れるはず。
そうやって、バイクは私を教育してくれます。
by H
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