真夏の太陽が沈み、満月が登り切った深夜0時、
今宵も満月ツーリングが開催された。
今回、大倉正之助氏は水俣へ遠征との事で、鳴り物無しの会となった。
ささやかな宴のために篝火を一つだけ焚く。
浜には、夏だけ出現する海の家が昼の喧噪を想像させるが、
風は、既に秋の匂いを纏っていた。
一期一会という言葉が毎回当てはまるように、
この日も新しい出会いが会った。
悔いなく生きたいからバイクに乗る、という言葉にうなずく女性が、
現地集合現地解散のツーリングの意味を問う。
死に繋がるからこそ群れずに走る、という事より、
死を見続ける死生観に興味を示し、そして同意する。
その顔を見ると、かなりの物を背負って生きているようにも見えた。
火は、穏やかな風に揺らぎながら、見る者の心に迫る。
無心に導かれる心は、その時、頭から離れない想いに焦点を定める。
私は、出会いと別れを考えていた。
今年は、別れたくない人達と色々な形で別れてきた。
辞する者、死す者、離別する者・・・。
未来は今の積み重ねであり、今を一生懸命生きるが故の方向性は、
形を刻々と変える炎のように感じる。
燃料を足したり風の助けを得なければ、燃え尽きてしまう篝火は、
何か一つ欠けた時からその力を失っていく。
人の気持ちも同じ事。
燃やし続けるには、片方の気持だけでは難しい。
では、燃やし続けられない時、どうすればいい?
炭になって自然に消えるまで放置する人もいれば、
水をかけて一気に消し去る人もいる。
どちらが良いかは解らないが、
心の問題故、水をかける作業にはお互いに痛みが生ずる。
直接水をかけようとする人の方が辛く見えがちで、
水をかけられた人の方は呆然自失となるのが常に思える。
しかし、自分が水をかける、と考えている人は、
その水を相手が用意している事に、気がつけない。
それが痛みを覚悟した愛情だ、とも・・・。
痛みの伴う改革とは何だろう。
それを容認するためには、どこかで理解と愛情が必要だ。
死者を弔う気持と、個人的信念をごちゃ混ぜにして、
多くの国民が首を捻る行為を行う首長は、
バケツいっぱいの水をまく事はできても、
その水を用意する人達の気持ちは理解できるのだろうか?
そんな事まで考えさせるほど、
この日の篝火は雄弁だった。
Text and Photo by H.Wakao
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