人は誰でも、自分を守るために壁を持っている。
それは、例えば腕力だったり、財力だったり、着る物や言葉遣いだったり・・・。
つまり人間社会は、どうしても壁に囲まれて形成されているのであって、
その壁無くしては発展もしなかった・・・・
と乱暴に言ってしまうが、何でこんな事を言い出したかと言うと、
ある催し物のタイトルを見たからに他ならない。
バリアフリーとは建築の分野において、物的環境整備の条件を表す概念として用いられた用語だが、
社会環境においても障害を持つ人達に対して、優しい環境作りを意味する言葉としても使われている。
で、能の場合のバリアフリーとは何を指すのか、ちょっとだけ興味が沸いて、15日に横浜能楽堂まで歩を進めた。
これでもかと夏の日差しを投げかける太陽は、容赦ない勢いで身体の水分を奪っていく。
舗装され水分が蒸発しにくい環境は、エアコンの排気と相まって石垣島よりも暑い・・・と感じさせた。
まさにヒートアイランドとはこの事なのだろう。
Tシャツがあっという間に汗ばみ、水を飲んでも暑さを凌げず、能楽堂へたどり着く前の木陰の下で、息絶えそうになっていた(^_^;)
横浜能楽堂は、飛天双○能で年に1回訪れるので、私にとっては馴染みの深い場所。
いつも観能する時刻は大概夕刻からなので、こんな眩しい能楽堂を見るのは初めて。
まずはどこがバリアフリーなのかを探ってみた。
障害者用に、イヤホンガイドや点字でのガイドなどが揃い、パンフレットにはかなり詳しい演目の台詞や、
能、および能舞台などの詳しい説明も載っていた、
そして舞台脇には番号を示す表意板が置かれ、説明書の番号に照らし合わせると今、
舞台で演じられている部分が、解りやすくなっていた。
形の上では、確かにバリアフリーという配慮はなされていると感じたが、車椅子の人の数は少なく、
ホールの構造上の弱点が出たのも事実であった。
車椅子からイスに座り替えないと、多くのチェアウォーカー達は物理的に入る事ができないのだ。
これは、ホール自体の設計上の問題であるから致し方ないという事なのだろうが、
何か方法は無い物だろうか・・・考えさせられた。
しかし、そんな事よりも、少し不快に感じる事があった。
この催しは、身体的な理由から能に触れるチャンスが少なかった人達に向けた、教室のような催しでもある。
それ故、料金は安く、案内の人達は多く、手話通訳者も常駐する態勢が引かれていたが、
その珍しさを紹介しようと、報道関係者も多く来場した。
その報道関係者が、本来数少ない車椅子用のスペースに三脚を並べ、そのスペースのチケットを買った人が入れない事があった。
また、テレビカメラは障害者を選んでは撮りまくり、シートへの移動の邪魔になりかねない風景も、目にした。
能は、自然界の音の中で、その息吹や余韻をも含めて感じる、五感を刺激する芸術だと思う。
なのに、車椅子用のスペースを買った人は、
その横でシャッター音やフィルムを入れ替える音、テープを掛け替える音を聞かなくてはいけない。
何だか、とても不愉快になってしまった。
日本古来の芸能に触れるための催しとして、合格点であっただけに、
心ない報道関係者の対応が悔やまれる。
五感を兼ね備えない人達は、残された感覚を普通の人より鋭敏にし、日常を生きている。
だから、その人達の方が、能の持つ波動を、直感的に感じられるのでは・・と思った。
ただ、残念な事に、演者達は超一流のメンバーではなく、そのため寝た子を起こすような迫力には足りない。
でも、ちょっとした介助が加えられるだけで、本物を味わえる事は素晴らしいと思う。
だからこそ、無粋な報道関係者に腹が立ったのだろう。
何故、障害者が外に出にくいのか・・・と聞けば、一般的な人はその障害に対する物理的なハンデを持って答える事が多い。
しかし、今回の能を観ていて感じた事は、相手の立場を想像しない心の壁によって、
ハンディを持つ人達は阻害されているのだな・・という事だった。
壁は、それを作る事によって、自分が楽に生きていけるものだ。
外からの攻撃を避け、内からは寄りかかれる。
こんな楽な事はない。
だから、差別が生まれ、物理的なバリアはどんどん増えてしまったのだろう。
結局、物理的バリアを無くすためには、心のバリアをまず外さなくてはいけない、という事だ。
Text and Photo by H.Wakao |