今年もやってくる。
8月6日が。
20世紀の終焉に、区切りをつけるために走る事にした。
広島へ向けて。
生きている事、日本人である事、今も戦争が無くならない事実、
そんな事は日々の暮らしの中で、意識の片隅にも引っかからない。
だから、今自分の立っている場所の確認が必要だった。
そして、だらけきって情けない姿をさらす自分を、客観視する必要も感じていた。
自分を研ぐ。
両刃として。
それは、簡単なようでいて、実に難しい。
誰かにされる事ではないから、その方法さえ見つけなくてはならない。
死を見つめて、初めて逆の生を見る事ができる。
少なくとも私は、そう感じている。
だから、危ない事を好む生き方をしてきた。 無意識に。
しかし、つかの間に全開走行を試みても、所詮は付け焼き刃に過ぎない。
生きている事を実感しても、萎えた自分を研ぐ事には繋がらない。
バイクは、もっと楽しい物だ。
生きる道を探る道具ではない。
まして、自分を研ぐ砥石ではないのだ。
だから、距離と概念の違いを感じる必要がある、と思うのだ。
まずは走ろう。
自分にとって、必要な行為。
ちょっとした距離ではあるが、楽しめる距離だろう。
広島
街全体が悲しみに包まれる光景は、嫌でも生きている事を考えさせる。
その言葉にできない色々な想いが空気に充満している事を、
14年前仕事で広島を訪れた私は感じた。
その時の私は、
その想いを、その空気を、どうしたら撮る事ができるか・・・と考えた。
カメラマンとしての魂のような物は、
そこから私の中に宿ったと、今も思っている。
現在、仕事としてカメラを持つ事は、殆ど無い。
だからこそ、好き勝手な風景を切り取れる。
そして、何故風景を切り取りたいかを、
ゆっくり考える事もできるようになった。
カメラを持っていく。
シャッターを押せるかは、自信がない。
でも、ファインダーは覗いてこようと思っている。
もしかしたら、自分が求めていた物が何か、見えるかもしれないから。
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